2023年のごあいさつ
あけましておめでとうございます。
どうしてもさぼってしまう怠け者のブログを一度でも覗いてくださったご縁のあるみなさまには、こころより感謝いたします。
それにしても、なぜ昨年のあいさつがないのかと我ながら疑問に思ったのですが、2021年の暮れに母方の叔母と父方の叔母が亡くなったことをいま思い出しました。ほんとうのことをいうと、たいせつな友人のたいせつな人も昨年の暮れにあの世に旅立たれたため、気持ちの上では今年も喪に服しています。
それにしても(2回目)、HPをなかなかうまく動かせていないなぁと、新年早々反省モードでありまして、まぁこれがそのまんまのわたしなのだとも思っています。
再生のための崩壊
みなさんにとって、2022年はどんな年でしたか?
わたしにとっては、とことん初チャレンジと内省を繰り返した年でした。
駆け抜けるときは駆け抜け、のんびりするときはモーレツにスイッチを切り替え、2020年から続く破壊と再生のための混乱(過渡)期の中でも、わたしらしく過ごせました。
お声がけいただいたご縁やチャンスには、とにかく感謝の気持ちを持って行動しました。
途中、かなりバランスを崩してしまうものの、まわりの人のありがたいサポートにより、ゆっくりとペースを取り戻せました。いつも以上に取り組んだことは、いまを生きる中で瞬間瞬間感じる「違うもの」と「違わないもの」を、ぐっと深いところまで潜り込み、ていねいに取り分けては眺める。そんな1年でした。
誰もがド真ん中を歩くための前ぶれ
2022年と2023年を元旦で仕分けしたとしても、相変わらず世界は(見る視点によっては)混乱したままです。それでいて、ふだんとなんら変わらない日常が過ぎています。
ただ、世の中の流れが以前よりも奇妙だと感じています。だからこそ、ずっと先の未来を憂うよりも、希望ある未来のためにいまできることや目の前の小さなよろこびのために生きたほうが賢明だと思っています。それは勝手気ままにじぶんのためだけに生きるいうことではなく、より魂が求めていることを選択することで、多少なりとも世の中や人のためになったり、生きがいみたいなものを得られて生きやすくなるものだと感じています。
人は本質を生きようとすればするほど、おそらく「このままでいいのか?」という現実が回ることになるのだと思います。なにかが違う、なにかが歪んでいると感じた場合、それはじぶんの真ん中から外れている、もしくは外れかけているという、もうひとりのじぶん(内なる神)からのサインなのだと思うのです。
社会のせい、
会社のせい、
誰かのせい、
こどものため、
家族のためだ、
と、
何かと理由をつけて守りに入れば、変化することが怖くなります。ちなみにわたしは年老いた母親を言い訳にすることが増えました。
つねに変化を起こす必要があるのでもなく、他人軸やしがらみで生きてばかりいると、外的な変化が起きたときに、ほんとうのところが見えにくくなってしまうということです。
違わないために、違いをみつける時間
なんとなくでも、ここまで思いのままに書いてみると、Instagramで長くなっては謎に謝ってしまうよりも、こうやってじぶんのフィールドで書けば、それなりに落ち着くものだなぁと思ってみたりと、相変わらずややこしい性格です。この件についてはもう少し内観してみます。
それでは、みなさま、2023年がますますよろこびが巡る1年となりますように…
本年もよろしくお願いいたします。